英語テストビリの私がTOEICで高得点をとるまで

今年久しぶりに受けたTOEICでほぼ900点(ほぼ、がミソw)を取った。

そんな人はたくさんにいると思うけど、それでも高校時代に英語が学年でビリだった自分にとってはちょっと感慨深い出来事だった。

今では日常で困らない程度の英語は使えるようになったけど、本当にひどい英語嫌いだったので、振り返りたい。

 

最悪だった英語との出会い

中学に上がる前の春休み、小学校5年生ではじめた中学受験が無事終了し、かわいい制服を着て、電車に乗って学校にいくのが楽しみだったあの頃。小学生ながら、2年間楽しみを我慢して勉強したつもりだったし、その努力に見合うだけの結果は出たし、この春休みくらいは自由に遊べる!と楽しみにしていた。

 

しかし、父親から渡されたのは英語の入門テキスト。

やっと勉強から開放される!と思ったのに、英語をやれと。夜だったか週末だったかには父親からスペルのクイズが出され、どれだけ勉強したのかノートをチェックされ、本当に最悪だった。ローマ字は書けたけど、筆記体は書けず、Elephantのスペルを間違える。「どうしてこんなものもわからないんだ!」と怒られ、ますます勉強しろと言われた。思い描いていた春休みじゃない!と、中学で英語の授業が始まる前に英語なんて大っ嫌いになっていた。

 

今にして思えば、英語教育が有名で且つ学年の3分の1を帰国生が占める私立中学に進学する私を父なりに心配してくれたんだと理解できる。ただ、やり方は完全に間違っていた。あの時、私が学ぶべきもの大事なのはElephantのスペルじゃなくて、Elephantのスペルを正しく書きたい!と思わせるモチベーション作りだった。

 

中学に入学する前から英語が大嫌いだった私は、それをずるずると引きずって、エスカレーター式に高校へ進学した。

 

成績下位者のクラスで英語を学ぶ高校時代

高校に入ると、全てのテストで順位がわかるようになる。それまでは「嫌い」「苦手」だった英語もしっかり数字に現れる。元々平均点より何十点も低い点数だったし、覚悟していたけど、ただただ壊滅としかいいようのない順位だった。

 

ただでさえ帰国生が多く、はたまた英語へのモチベーションが高い一般生もたくさんいて、モチベーションのモの字もない私は端から英語は諦めてしまった。もちろん、大学受験のために英語の勉強はするけど、せいぜい他の科目を引っ張らない程度にしかならなかった。

 

テスト成績によってレベル分けされた英語のクラスは、3年間ずーっと1番下のレベルだったし、英語が足を引っ張り続けた。どんな勉強もそうだけど、よくわからない→点数が悪い→ますます嫌いに→どんどんついていけなくなる、この負のループに完全に陥っていたのが高校時代だった。

 

得意科目の国語が活かせない大学は受験もせず、結局英語が克服できないままそこそこの大学に進学した。

 

カナダでの3週間が私を変えた

大学に入学してからも必修科目で英語は私を追いかけてきて、入学後すぐにクラス分けのテストを受けた。どうせ下のクラスだろうなと思ったら、上から2つめか3つめくらいの上位のクラス(私にとってはビリではないことにびっくりした)に入ることができた!

 

私が通っていた中高は本格的な英語教育に力を入れている学校で、その中では落ちこぼれだったけど、大学レベルになると落ちこぼれではなかった。

 

まあだからと言って、英語嫌いが直るわけでもなく特に何が変わるとかそういうことはなかった。

 

大学2年のとき、何を思ったか語学留学がしたくなった。語学留学というよりも、ちょっと海外旅行がしたかっただけで、語学留学と言えば親もお金出してくれるかなというような甘っちょろい考えだった。

本当はニューヨークに行きたいと言ったけど、それはさすがに親に反対されてカナダのビクトリアという街へ行くこととなった。

  

 

ここは本当に自分にとっての大きなターニングポイントだった。英語はほとんどできなかったけど、とても素敵なホストファミリーに出会うことができ、今でも連絡を取り合う大切な日本人の友だちもできた。

 

家族全員が集まって、夕食をとったり、平日の夜に近くの公園でBBQをしたりと、すぐそばにある自然を楽しんでいる姿も非常に印象的で、よく覚えている。私は父親がものすごく忙しく、正月盆も問わずに電話がかかってくれば家を出て行くような仕事をしていたので、毎日の食卓にお父さんもお母さんもいることにとっても驚いた。

 

英語はあまり上達しなかったけど、英語をどんどん話して、もっともっとこの人達と繋がりたいと思うきっかけになった。バックパッカーとして旅行もしたい(沢木耕太郎の影響をめっちゃ受けている)し、このままじゃダメだと本気で思うことができた。

 

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大して英語ができないくせに英語で1日生活するのに本当に疲れてしまって、ホストマザーが誘ってくれたヨガのレッスンや、パーティのお誘いを断ってしまったこともある。今から考えると部屋に閉じこもったシャイな女の子だったろうな。

 

私を英語嫌いにした父だけど、語学留学に行かせてくれて本当に感謝している。

 

副専攻として英語を勉強する

私の通った大学は語学を副専攻として選択することができた。大学3年生になった私は副専攻の英語コースを取ることとなり、週4回×90分の英語の授業を受けることになった。

 

今思い返せば、このタイミングで長期留学を真剣に考えればよかったと思う。ただ、自分は英語が苦手で、留学提携校が少なかった大学で交換留学生に選ばれる自信がなかった。4年間で大学を卒業すべきだと考えていたし、就活も目の前に迫っていて、留学に対するアクションを起こせなかった。ただ、この時に留学をしなかったからこそ、今でも海外に対して憧れを持っているし、今海外移住にチャレンジしようと思えている。

 

こうして大学生という特権を生かし、英語の授業をとにかく受けるようにした。留学生が受ける英語の授業も受けたけど、それについてはさっぱりついていくことができなかったけど…

 

「英語がもっとできるようになりたい」と思っていたけど、「英語が得意」と言うにはまだまだ自信もなく、留学と同じ理由で就活でもいわゆる英語を使うような会社は一切視野にいれておらず、憧れの広告代理店への就職が決まった。

 

虎視眈々と留学の機会を狙い、ゲットした奨学金

私の留学熱は入社後も衰えることはなく、ますます憧れは強くなっていった。初めての本部長面談でも3年で辞めてカナダへ留学しますと堂々宣言。直属の上司からは「留学したいって公言するの、辞めたほうがいいよ。どうせ辞めていく子と思われると仕事も教えてもらえなくなるし。」と言われて、衝撃を受けたし、ちょっとムカついた。ただ、上司の言っていることもごもっともだったので、それから先は「海外に興味ある!」ということだけをアピールするように注意した。

 

とはいえ、いつかチャンスがあれば留学をと思い、貯金はコツコツ続けていたし、いつかがいつになるかは分からなかったけど、虎視眈々といろんな計画を練っていた。

 

そんな私の前に現れたのが「テンプチャレンジウーマンスカラシップ」。社会人経験のある女性限定で2ヶ月間の留学の学費・宿泊費などを負担してもらえる神のような奨学金。これだ!と思った私はすぐさま応募。書類審査と2回の面接(英語テストもあり)を経て、50倍という高倍率をくぐりぬけ合格することができた。 選んだ渡航先はオーストラリア、シドニー。こんな機会がないと行かないだろうなと思ったのがきっかけで大きな深い意味はなかった。

 

やっと掴んだ留学の機会。

ここまで本当に長かったし、出立の朝は感無量だった…!